Poesy In My Pocket #8 宮崎信恵
2024.08.01用事があって、友人が夫婦で営む洋菓子店に車で出かけた。開店前の忙しい時間だったので、簡単に話を済ませてお店を後にした。お土産にお店で使っている桃を二つ持たせてくれて、助手席に乗せて帰り道を走った。しばらく走って、何かおかしい、と思った。今頃車内には桃の甘い香りが充満しているはずではないか?去年の夏に新型コロナウイルスに感染して以来、私の嗅覚は鈍くなっていて、無臭の世界を生きている。桃の匂いを確かめたくて、信号待ちで桃が入っている紙袋に顔を突っ込んだ。そこには確かに桃の香りがあった。鼻を近づけるとちゃんと甘い香りがして、触れずとも表皮の産毛の質感を感じさせた。
嗅覚障害は長引くと元に戻らないらしい。私はもう手遅れかもしれないな、と思う。一度、春に耳鼻科で相談をして、漢方薬と点鼻薬を処方されたのだが、毎食前に飲まなくてはいけない漢方薬が不味すぎて飲み続けることができなかった。加えて、先月末に息子の溶連菌がうつって体調を崩し、今もまだ鼻水が出続けていて絶望的な鼻をしている。
よくコーヒー豆を買っていたお店のおじさんが突然辞めて、別のおじさんになった。焙煎のやり方が違うのか、いつも飲んでいるコーヒーの味が変わってしまい、何となくそのコーヒー屋から足が遠のいた。お店の人と話をするのはあまり得意ではないけど、前のおじさんはいつも気さくに話しかけてくれて、感じが良くて好きだった。辞める直前もいつもと変わらなかった。何も言わずにいなくなってしまって寂しい。前のおじさんが消えた店内で居合わせた他のお客さんも、同じように動揺しているのが見てとれた。今日みたいな日差しの強い日にお店の近くを通ると、夏はコーヒー豆が売れない、と去年の秋に久しぶりに豆を買いに行った時におじさんが話していたのを思い出す。コーヒー豆も助手席に座らせると香ばしい良い香りを車内に充満させる。ドライブの相棒にはぴったりだ。
鼻は利かないが、耳はよく聞こえる。部屋でずっと付けているエアコンやサーキュレーターの音がうるさいし、息子がイヤイヤで泣き叫んでいる時はつい耐えられなくなって耳を塞いでしまう。たまに一人になった時に両耳にイヤホンをつけて、こっそり音楽に合わせて頭を振って肩を揺らしてみたりする。昔よく聴いていた音楽が流れて、懐かしい匂いがしたような気がした。